ひととき

日々の出来事について書き留めていきたいと思います。

知らなくて良いこと

最近ふと思う。

 

知らなくても良かったことを知って、無駄にエネルギーを使ってしまうことが多いと。

 

感情のエネルギーを使うことは良いことなのかもしれませんが、

今のところ、よかったと思ったことはありません。

 

知らなくていいこと、知ったほうが良いことは人それぞれ違う。

 

自分を情報から守ることも、やはり大切だと思う。

 

ナチュラルに生きたい。

 

共感

人は共感を求め続ける生き物なのかもしれない。

 

何か面白いものを見つけた時

おいしいものを食べた時

 

楽しかった時

辛かった時

 

ふとした瞬間に、その思いを誰かに伝えたくなる。

 

なぜ伝えたくなるのか。

 

共感してもらいたのだろうか。

 

笑ってほしいのか。

 

話したいだけなのか。

 

自分でもわからない。

分かろうとしていないだけかもしれないけれど。

 

最近の地球は、なんだか危険だなとますます思う。

 

我慢が爆発しているような気がする。

 

恐ろしい。

 

そんな時大切なことは、まずは自分がハッピーになること。

 

したいことをして、食べたいものを食べる。

 

そうして、自分の近くの人にもハッピーな気持ちを伝染させる。

 

みんなができたら、世界はもっとハッピーになれると思う。

 

まずは自分を大切にすること、

とても大切なことだと思う。

 

おわり

衝撃

たまに、とてつもない虚無感に陥ることがある。

虚無感という言葉が当てはまるのかはよく分からないけれど、突如やってくる。

 

大学生だったころ、基礎演習か何かの授業で、人工知能について討論する機会があった。

シンギュラリティとかなんとか、いろんな議題について、講師の説明などを交えながらしていた。

将来、私たちの脳みそが人工的に作ることができるようになるのか、という議題の時、

自分は、「難しいと思う。自分自身でさえ、次の瞬間何を思い何を考えるのか分からないのだから。」と答えた。

講師は、そういう意見もあるんだね、クレバーだね。と一言話し、話題を変えた。

 

その記憶がふと思い浮かんだ。

自分だけなのかもしれないけれど、本当に10秒後30秒後、自分が何を考え、何を思うのか、想像もつかない。

だから、こうして突如として虚無感に包まれてしまう。

 

ずっと前から、よく考えていた。こういう時はどういう時になるのかを。

色んなことが原因かと思うこともあった。でもそれがない時も、虚無感がやってくる時もあった。

だから、分からないのである。

 

今回はこうして文字に書き起こしてみた。

といっても、手で文字を書く時と、スマホで文字を打ち込む時でまた、自分の文章も変わってしまう。気持ちが変わる。

これはおそらく予測変換の仕業なのだと理由はわかっているのだけれど。

 

それにしても、虚無感とはなんなのだろう。

自分がとてつもなく大きな空間に1人いるような感覚である。

 

過去、未来からの逃避なのか。

 

 

 

それより、このはてなを1年近く何も書かずにいたことに気づく。

ほんのついこの間書いたような気がしていたのに。

一年が早いと一言では済ませられないような気がしている。

 

そんな衝撃だった。

 

おわり

 

 

 

 

ハンドクラフト

最近ハンドクラフトにはまっている。

 

仕事柄、オーブン粘土を触ることがあり、ちょっと触ったらみるみるはまってしまった。

ものづくりは楽しい。

自分の手で何かを生み出すということはとても楽しい。

 

いずれはminneに出店したいと思う。

 

やはり老後は園芸家兼アーティストとして生きていきたい。

 

おわり

 

文化の巡り

小学生の頃からインターネットに触れ、やがてスマートフォンを持つようになり、

さらにネットが身近になって、

沢山のサービス、SNSが生まれて、

こんな風にブログを書くこともできるようになった今。

 

色々と思うことがある。

 

溢れかえる情報は、重なる情報と日の目を見ない情報でさらにごった返している。

 

情報の量はとどまることを知らない。

 

毎秒毎秒ものすごい量の情報が増えていく。

 

この世の概念には、有限というものがあるのに、情報に関してはまるで限りがない。

 

今まで1人の脳みそ内にだけ止まっていた情報も一瞬で世界へ広がる。

 

私たちの脳みそは昔から変わらない。

 

なのに情報だけが増えていく。

 

1人1人が持つ時間も変わらない。

多少寿命は伸びただろうけど、活発な活動期はあまり変わらない。

 

果たして私たちの脳みそはそれらの情報に対峙できるのだろうか、できているのだろうか。

 

もし、対峙しているとなると、きっとその分のなにかを犠牲にしている。

 

それは、時間も脳みそも有限だから仕方のないことである。

 

ただ、私たち現代人はそのことに気づいていないのではないかと思う。

 

どうでもいいニュース、何度も見た映像、無意味な情報たち。

 

これらに侵食されていないか。

 

 

SNSに依存している人にも同じことが言える。

どうして投稿するのか。

 

どうして毎分のようにタイムラインをリロードしてしまうのか。

 

暇さえあれば、アプリを起動させてしまうのはなぜ。

 

冷静になった時、ふと我に帰る。

 

どうしてシェアしたくなったのか。

 

本心から良いものを伝えたい、ということもある。

 

反響を見たい時もある、消息を伝えたいときもある。

 

うまく撮れたから見てほしいときもある。

 

ただ、もしもネットがなければ、それらの気持ちはどうしていたのだろう。

 

もどかしくざわざわした思いが頭をよぎった。

 

 

 

今はインターネットの文化の成熟期でもあると思う。

 

インターネット人口が増え、昔よりもお節介な人が増えたことで、すぐに違和感のあるものは排除、通報される。

 

晒した上で自分の意見を上塗りする人もいる。

 

これらは、まるで昔の近所付き合いのような感じなのではないかと思った。

 

昔ほど今は近所付き合いが深くない。

 

まして集合住宅では、隣の人がどんな人なのか知らない人も多いと聞く。

 

その分のエネルギーがネットに注がれていると考えても不自然ではない。

 

しかし、インターネットもこれから、他人には興味のなくなり、素っ気なくなる時代が来るだろう。

 

今ほど炎上したり、晒されることもなくなるだろう。

 

それはきっと、わざわざネットに上げる人も少なくなるだろうと思うからだ。

 

本当の幸せや喜びは自分だけが知ればいい。味わえればいい。

 

今でもきっとそうだと思う。

 

それに気づきだした人はそっとインターネットから消えていく。

 

自分の好きなこと、気に入っていることに対してアレコレ言われる筋合いはないのだから。

 

 

 

今でも、働き方のことや、会社やお給料のことでブラックだ、なんだと声を上げている人がネットに散見している。

 

しかしながら、実際のところは、きちんと定時で働いて、満足して働いている人も多くいる。

 

自分自身、そういった企業の近くを通勤で通るときにそのことを実感する。

 

それらの会社から出てくる人々の顔は明るく、人通りが多いのは8時と17時から18時であり、ライフワークバランスもきちんと取れているのだろうと簡単に推測できた。

 

しかしそういった声をネットで見ることは少ない。

 

本当の幸せや満足を知る人はネットでわざわざ見知らぬ人に発信しないのだろう。

 

この波が広がることを信じたい。

 

きっとこれから、インターネットの世界はより腐敗していく。

 

うまく利用して、呪縛から逃れたい。

 

 

あれこれ書いたが、言いたいことは、人間の脳みそは有限であること。

自分の意思で活動できる時間は限られていること。

 

情報を処理する容量にも限りがあるのかもしれない。

 

 

夢と目標を忘れないでいたい。

 

おわり

 

 

 

駄作だった

以前絶賛していた映画、ペンギンハイウェイのブルーレイが届き、1週間ほど放置した上でやっと観た。

 

結論から言うと、とても微妙な映画だった。

 

劇場で見たときと全然印象が違った。

 

何故だろうかと考えたところ、思い当たるのは、ブルーレイではエンディングで宇多田ヒカルの歌が流れないからではないかと推測した。

 

終わりよければ全てよしと言う言葉があるように、終わりに自分のすきなこと、ものがあればそれだけでかなり満足度が上がる。

 

とてもシンプルで簡単である。

 

日常でも使えるテクニックだと思う。

 

仕事の終わり

1日の終わり

1週間の終わり

月の終わり

 

に好きなこと、テンションの上がることをしたらきっと日々の生活の満足度がグッとあがるはず。

 

おわり