ひととき

日々の出来事について書き留めていきたいと思います。

文化の巡り

小学生の頃からインターネットに触れ、やがてスマートフォンを持つようになり、

さらにネットが身近になって、

沢山のサービス、SNSが生まれて、

こんな風にブログを書くこともできるようになった今。

 

色々と思うことがある。

 

溢れかえる情報は、重なる情報と日の目を見ない情報でさらにごった返している。

 

情報の量はとどまることを知らない。

 

毎秒毎秒ものすごい量の情報が増えていく。

 

この世の概念には、有限というものがあるのに、情報に関してはまるで限りがない。

 

今まで1人の脳みそ内にだけ止まっていた情報も一瞬で世界へ広がる。

 

私たちの脳みそは昔から変わらない。

 

なのに情報だけが増えていく。

 

1人1人が持つ時間も変わらない。

多少寿命は伸びただろうけど、活発な活動期はあまり変わらない。

 

果たして私たちの脳みそはそれらの情報に対峙できるのだろうか、できているのだろうか。

 

もし、対峙しているとなると、きっとその分のなにかを犠牲にしている。

 

それは、時間も脳みそも有限だから仕方のないことである。

 

ただ、私たち現代人はそのことに気づいていないのではないかと思う。

 

どうでもいいニュース、何度も見た映像、無意味な情報たち。

 

これらに侵食されていないか。

 

 

SNSに依存している人にも同じことが言える。

どうして投稿するのか。

 

どうして毎分のようにタイムラインをリロードしてしまうのか。

 

暇さえあれば、アプリを起動させてしまうのはなぜ。

 

冷静になった時、ふと我に帰る。

 

どうしてシェアしたくなったのか。

 

本心から良いものを伝えたい、ということもある。

 

反響を見たい時もある、消息を伝えたいときもある。

 

うまく撮れたから見てほしいときもある。

 

ただ、もしもネットがなければ、それらの気持ちはどうしていたのだろう。

 

もどかしくざわざわした思いが頭をよぎった。

 

 

 

今はインターネットの文化の成熟期でもあると思う。

 

インターネット人口が増え、昔よりもお節介な人が増えたことで、すぐに違和感のあるものは排除、通報される。

 

晒した上で自分の意見を上塗りする人もいる。

 

これらは、まるで昔の近所付き合いのような感じなのではないかと思った。

 

昔ほど今は近所付き合いが深くない。

 

まして集合住宅では、隣の人がどんな人なのか知らない人も多いと聞く。

 

その分のエネルギーがネットに注がれていると考えても不自然ではない。

 

しかし、インターネットもこれから、他人には興味のなくなり、素っ気なくなる時代が来るだろう。

 

今ほど炎上したり、晒されることもなくなるだろう。

 

それはきっと、わざわざネットに上げる人も少なくなるだろうと思うからだ。

 

本当の幸せや喜びは自分だけが知ればいい。味わえればいい。

 

今でもきっとそうだと思う。

 

それに気づきだした人はそっとインターネットから消えていく。

 

自分の好きなこと、気に入っていることに対してアレコレ言われる筋合いはないのだから。

 

 

 

今でも、働き方のことや、会社やお給料のことでブラックだ、なんだと声を上げている人がネットに散見している。

 

しかしながら、実際のところは、きちんと定時で働いて、満足して働いている人も多くいる。

 

自分自身、そういった企業の近くを通勤で通るときにそのことを実感する。

 

それらの会社から出てくる人々の顔は明るく、人通りが多いのは8時と17時から18時であり、ライフワークバランスもきちんと取れているのだろうと簡単に推測できた。

 

しかしそういった声をネットで見ることは少ない。

 

本当の幸せや満足を知る人はネットでわざわざ見知らぬ人に発信しないのだろう。

 

この波が広がることを信じたい。

 

きっとこれから、インターネットの世界はより腐敗していく。

 

うまく利用して、呪縛から逃れたい。

 

 

あれこれ書いたが、言いたいことは、人間の脳みそは有限であること。

自分の意思で活動できる時間は限られていること。

 

情報を処理する容量にも限りがあるのかもしれない。

 

 

夢と目標を忘れないでいたい。

 

おわり